磯のグレ釣りが好きな大分の釣り師、池永祐二。2006年からの“磯にはいつも夢がある”を継いでいるブログです。還暦を過ぎ、現役から一歩退いた形になりましたが、釣行記や趣味としての鳥見などを主体に、自然の素晴らしさを記録しています。
今回のG杯グレの米水津予選で、心から嬉しかったことは奥村康仁さんが参加していた事でした。氏は北九州グレ研を立ち上げ、“めじな塾”を立ち上げた名手です。
私がG杯に目覚めたのは昭和62年の事。当時の九州予選はトーナメント戦。100名前後の参加者で、長崎県や大分県を舞台に一年に一回だけ開催されていました。
釣具店の勧めで、私がG杯グレの九州予選に初めて出場したのが、蒲江の第10回大会。あれよあれよと勝ち抜いて優勝。その勢いで日振島で開催された全国大会に臨み、一回戦で三原名人に5㎏対0㎏という、目も当てられない完敗を期したのです。
当時のグレ釣りでは、四国と関西方面の釣り師が全国レベルでした。九州では故斉田名人が2度の優勝を果たしていましたが、九州では突出した釣技の持ち主で、後に続く釣り人は数えるほどしかいなかったと記憶しています。
全国に後れをとっていた九州ですが、奥村さんの発案で昭和63年頃に,”めじな塾”を結成。奥村さん・橋本さん・行徳さん・力武さん・倉掛さん・野副さん・私などが、黒川温泉に集合し【目指せ全国制覇】を合言葉に活動を開始したのでした。
大分・宮崎・鹿児島・熊本・長崎など、色んな釣り場で模擬トーナメントを行って、どの様な釣り場でも結果を出すべく努力し、個人としては全国を目指し、グループとしては当時のクラブ員などを指導する活動を行っていたのです。
バックアップは釣紀行が密着取材を行う事で、どのような状況でどのような釣り方が有効だったのか?検証しながら記事にして頂き、約20年位活動を継続したのでした。
現在、各メーカーの全国大会で九州勢の活躍は目を見張るものがあります。30年ほど前に立ち上げて活動を起こした“めじな塾”の熱い志が、九州釣り界の根っことして広く深く張り巡らされている・・・と私は思っています。
その火付け役の奥村康仁さんに会えた事で、目頭が熱くなったのです。
私の自慢、めじな塾塾生(一部ですが・・)
70路の奥村さん、ジャンケン大会で最後に負けてしまいました
これからも御健在で釣りを楽しんで下さいね。いつも感謝しています(^^)
私がG杯に目覚めたのは昭和62年の事。当時の九州予選はトーナメント戦。100名前後の参加者で、長崎県や大分県を舞台に一年に一回だけ開催されていました。
釣具店の勧めで、私がG杯グレの九州予選に初めて出場したのが、蒲江の第10回大会。あれよあれよと勝ち抜いて優勝。その勢いで日振島で開催された全国大会に臨み、一回戦で三原名人に5㎏対0㎏という、目も当てられない完敗を期したのです。
当時のグレ釣りでは、四国と関西方面の釣り師が全国レベルでした。九州では故斉田名人が2度の優勝を果たしていましたが、九州では突出した釣技の持ち主で、後に続く釣り人は数えるほどしかいなかったと記憶しています。
全国に後れをとっていた九州ですが、奥村さんの発案で昭和63年頃に,”めじな塾”を結成。奥村さん・橋本さん・行徳さん・力武さん・倉掛さん・野副さん・私などが、黒川温泉に集合し【目指せ全国制覇】を合言葉に活動を開始したのでした。
大分・宮崎・鹿児島・熊本・長崎など、色んな釣り場で模擬トーナメントを行って、どの様な釣り場でも結果を出すべく努力し、個人としては全国を目指し、グループとしては当時のクラブ員などを指導する活動を行っていたのです。
バックアップは釣紀行が密着取材を行う事で、どのような状況でどのような釣り方が有効だったのか?検証しながら記事にして頂き、約20年位活動を継続したのでした。
現在、各メーカーの全国大会で九州勢の活躍は目を見張るものがあります。30年ほど前に立ち上げて活動を起こした“めじな塾”の熱い志が、九州釣り界の根っことして広く深く張り巡らされている・・・と私は思っています。
その火付け役の奥村康仁さんに会えた事で、目頭が熱くなったのです。
私の自慢、めじな塾塾生(一部ですが・・)
70路の奥村さん、ジャンケン大会で最後に負けてしまいました
これからも御健在で釣りを楽しんで下さいね。いつも感謝しています(^^)
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